♪ WARATTE SPECIAL ♪

TOMORROW 地球の奇跡、日本の農のめぐみ The miracle of the earth - agriculture in Japan いのちは支えあう 第3次生物多様性国家戦略 BIODIVERSITY

♪ WARATTE PHOTO REPORT ♪


♪ MAIL ♪

Your voice is welcome メールを送信する メッセージフォームをつかう


「山 富士山」日本画家 片岡球子





その子が生まれた時、父と母は、地球の「球」という字を名前につかいました。 「球子」と名付けられたその人は、画家になっても絵が下手だといわれてましたし、自分でもそう思っていたそうです。 それでも彼女は何十年と描き続け100歳を超えるまで画家として生きたのです。 「あたし下手でしょ」と言いながら。

日本画家、片岡球子(1905年~2008年)。 画壇最強ともいわれたその生命力は、彼女の絵を見れば納得できるかもしれません。

片岡球子さん
 

今日の一枚は、彼女の故郷である札幌の美術館(北海道立近代美術館)に納められています。

片岡球子、直球ど真ん中の富士山です。

溢れる色彩。爆発する生命力。
地球の球子は、富士山を鷲掴みにするように、或いは、我が子を抱きしめるように描いたのです。
富士の白さに山の青さに。
空も、顔色を失っています。
冬の富士なのに、その山肌は、青と赤と金色の激しいせめぎ合い。
恐ろしく無骨なフォルムは、まるで噴火寸前のボルテージ。

「山笑う」とは、夏の季語ですが、球子の富士はげらとげら大笑いしているのです。 画家のよろこびにこだまを返すように。

「山 富士山」1967年 片岡球子作
 

片岡球子は異端、型破りと呼ばれながら、絵画一筋に明治、大正、昭和、平成の四代を生き抜いた人です。

思い込みが激しい分、ものすごく純粋だった
人から下手だと思われても、自分の表現を貫き通す
最後まで激しかった人。最後まで火山のような人

片岡球子さん
 

彼女の生き甲斐が富士山を描くこと。
だから、狼狽してしまう人もいたかもしれません。
例えばこの街でも。

ニューヨーク・マンハッタン
 

富士山は日本の画家たちの永遠のモチーフです。
多くの絵師たちが挑んだ山です。
そして球子の富士。
その姿には、画家の素顔も隠されています。

童女の純情
猛女の野生が

「山 富士山」1967年 片岡球子作
 

片岡球子 画家を目指して

 
 

北国の短い夏。
長い冬を耐え忍んだ樹木も花も、いのちの歓びを謳歌します。
札幌の街は、片岡球子の故郷です。
生まれたのは明治38年。
家は大きな醸造業を営んでいました。

画家になろうと決めたのは、女学校の友人の言葉でした。
「私があなたなら 芸術家 絵描きになるわ ダンゼン」
その一言で、一生を決めた人です。

片岡球子小学校一年生の頃、妹と共に
 

覚悟を決めたら命がけ。
強情ですが、純情です。

向く向かないとか。上手いとか下手だとか。
そういうこととは無縁の人なのです。
どんなレッテルを貼られたって。

「山 富士山」1967年 片岡球子作
 

落選の神様

 
 

現在の女子美術大学は、片岡球子が日本画を学んだ学校です。

当時は3年制の学校でしたから、瞬く間に進路を迫られます。
卒業制作に没頭している頃、母親から一通の手紙が届きました。
「卒業したら、帰郷して結婚するように」

片岡球子、卒業制作と共に
 

球子には許婚(いいなずけ)がいました。 その男性にほのかな思いも寄せていました。 絵を愛するか、人を愛するか。 悩みぬいた末に絵の道を選んだ球子は、 卒業後、横浜の小学校教師の職を得ました。

わがままを許してくれた親の愛情に応えるためには、 早く一人前の画家にならなければなりません。 登竜門は、帝展や院展に入選することです。 しかし、いつも落選してしまうのです。

球子は、夜明けと共に起きて絵を描きます。 7時40分には、学校に行かなければなりません。 授業が終わっても、生徒の受験指導があり帰宅は夜の9時になってしまいます。 何事も全力投球という性分。 手が抜けないのです。

それからまた絵を描きます。
いつも着たきりで眠ってしまいます。
それが球子の暮らしでした。

片岡球子、小学校教師時代
 

院展にようやく入選したのは、25歳の時。
描いたのは枇杷(びわ)の木。
後の独創の世界からは遠く離れた静かな画風です。
緻密に描かれた果実の質感。
葉の葉脈。
対象に迫る球子の個性が芽吹いた一枚。

しかし、しれからが試練の歳月でした。
秋の院展には決まって落選してしまうのです。
しかも、5年連続。
「落選の神様」というあだ名さえ付けられてしまいます。

「枇杷(びわ)」1930年、片岡球子作
 

球子には、師と仰いだ画家たちがいました。 前田青邨(まえだ せいそん)、安田靫彦(やすだ ゆきひこ)、 小林古径 (こばやし こけい)らの大家です。 優美で洗練された繊細な表現で、正統とされた日本画家たち。 彼らの神経の行き届いた線が、球子には描けないのです。 染まろうとしても染まらない自分なのです。

或る日球子は、小林古径に招かれこう言われました。

「今のあなたの絵は、ゲテモノに違いありません。
しかし、ゲテモノと本物とは、紙一重の差です。
あなたはそのゲテモノを捨ててはいけない。
自分で自分の絵にゲロが出るほど描き続けなさい。
そのうちに、はっと嫌になってくる。
その時からあなたの絵は、変わるでしょう。」

片岡球子、師と仰いだ画家たち
 

制御しようとする筆先を乗り越え、 対象を直に掴もうとする内面の激しい力に、 球子自身が翻弄されていたのかもしれません。 しかし、周囲の大家たちは見抜いていたのです。 磨けばどんな輝きを放つか。 誰も持ち得ない未知なる原石の魅力を。

「剃髪」1950年、片岡球子作
 

片岡球子 ゲテモノを越えて

 
 

球子は、ゲテモノという古径の言葉を支えに、5年、10年と描き続けました。

「美術部にて」1952年、片岡球子作
 

噴火の時を待つ火山のように。

「山 富士山」1967年 片岡球子作
 

球子が独自のスタイルをつくり上げていくのは、1950年代のことです。

眩いばかりの色彩の世界。
黄金のように輝く画面は、百花繚乱。
けしの花びらの鮮烈。
着物の紋様や質感への強烈な愛着。
画面に溢れる生命観。

暗い霧が晴れたように、球子は新しい世界を構築していくのです。

「初夏」1956年、片岡球子作
 

その強烈なエネルギーは、日本の伝統芸能をも呑み込んでいきます。
歌舞伎や能楽。
そして舞楽。

ゲテモノを突き抜けた球子は、音も轟くほどの芸能絵巻を創り上げていくのです。

「渇仰」1960年、片岡球子作
 

そして一つのモチーフに行き当たるのです。
日本画家宿命の相手です。

球子、見参。

どれだけの画家たちが挑んだのでしょうか。
最も親しく、最も厳しいその姿に。
崇高壮麗。
象徴。

振り返れば、数千、数万の富士があります。

富士山
 

片岡球子が富士山を描く覚悟を決めたのは、60歳を過ぎてからのことです。

「絵の具を指につけて、描いていくわけです。
そうすると、迫力が出るんですよね。
直に富士山の体に触っているような感じがするんですね。
私はそう思ってんの。」

富士山を描く片岡球子さん
 

始まりはこの一枚だったといわれています。
59歳の時に発表した「伊豆風景」。
球子が描いた緑の夢です。
海の緑。
森の緑。
水族館のプールでは、イルカが跳ねています。

大らかです。

そんな気分にさせてくれるのは、ゆったりと構えるあの山。
しかし、まだ近づこうとはしなかったのです。

「伊豆風景」1964年、片岡球子作
 

球子は日本中を旅して回りました。
火山を描くためです。
北海道から鹿児島まで、列島の火山を訪ね、
登り、描き続けました。

噴火の煙も山肌も。
岩も雲も。

片岡球子さん
 

生きもののような桜島。

「桜島の昼」1962年、片岡球子作
 

麓には、長閑な農村の風景。
その背後で爆発する浅間山。

では、なぜ火山なのか。

「桜島、浅間、昭和新山等の活気のある山々や、 奇岩で名高い妙義山や、神住み給うという高千穂の峰など、 活火山、休火山、死火山と追いつめて、 ついに富士までやって来ました。」

「急に富士からストップの号令がかかって、立往生と言うところです」

「火山 浅間山」1965年、片岡球子作
 

やはり一筋縄ではいかないのです。
見つめ、見つめ。
見尽くして。
そして、生まれていくのです。

日本画家・片岡球子の教え子、山本直彰さん
「日本画家は、野菜とか果物の写生はさんざんしてるはずなんだけど、 写生した後の果物は、必ずといっていいほど不味いと。 それぐらいのまなざしを持たなければ、 ものを創ることは出来ないだろうね」

片岡球子さん
 

球子に見つめられた富士です。
動け、動けとそそのかされ。
火を吐け、煙を出せとせがまれ。
もっとおおしく。
もっと大きくと叫ばれて。

富士山は生涯のモチーフでした。通い詰めた山でした。

日本画家・片岡球子の教え子、山本直彰さん
「片岡先生にとって富士山というのは、毎回毎回スケッチをして、 同じ絵は一つも描いてないと先生は言ってらした。
写真を見て絵を描くということは、酷く嫌いましたね。
どんなにその通りに描かれたとしても、 そのものに生命力がなかったらなんの意味も持たないわけだから。 新しい命を生み出すことが、創造だから

見つめ見つめられて 全身でぶつかって
自分のすべてを投げ出して
これはどう
私はどうと

片岡球子さん
「一生富士山に『おまえいい絵描くな』なんて言われないんだろうと思うの。 それだから死ぬまで描きたいと思うんですね」

将来の伴侶は無口です
追いかけて富士
包まれて富士

「山 富士山」1967年 片岡球子作
 

 

13 July 2008
Go Report Index

 

Feel human being この人の生き様 on Web Magazine Waratte ! No Smile No Life

2007.12.21
ウツの時代、五木寛之さんの話から
2007.12.22
走った距離は裏切らない、女子マラソン野口みずきの挑戦
2008.01.07
あの人からのメッセージ2007、気骨の人たち、城山三郎
2008.01.12
パブロ・ピカソ作「ゲルニカ」20世紀の黙示録
2008.02.11
人権活動の最前線から 女性と子どものいまと未来
2008.05.03
「私はダメじゃない」を貫いて、漫画家 一条ゆかりの創作の原点
2008.05.05
『 カリアティッド 』 アメデオ・モディリアーニ、薔薇色に燃えて散った男の一枚
2008.05.15
ドストエフスキー 「白痴」  入り口も出口もない物語
2008.05.23
オリンピックとわたし 有森裕子
2008.06.13
魂の大地 ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
2008.06.14
孤高の人、フィンセント・ファン・ゴッホ作、『古靴』
2008.07.13
「山 富士山」片岡球子
2008.08.13
日本人の心を守れ-岡倉天心、廃仏毀釈からの復興
2008.09.17
わたしの ” じいちゃんさま ”-写真家、梅佳代
2008.10.29
神々のうた、大地にふたたび アイヌ少女・知里幸恵の闘い
2008.11.12
他人まかせの巻-横尾忠則 「少年」の心得-
2008.11.13
ニッポンを主張せよ アーティスト 村上隆
2008.11.15
I Have a Dream キング牧師のアメリカ市民革命
2008.11.29
漫画家  西原理恵子「トップランナー」での発言集
2008.12.08
プロ魂 王監督のメッセージ
2008.12.20
一人、そしてまた一人  マザー・テレサ 平和に捧げた生涯