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神になった日本人-史上最大の祟り神-崇徳上皇




香川県坂出市。瀬戸内海を望む白峰山の頂にある白峯寺(しろみねじ)です。 ここは四国八十八箇所の第八十一番札所。今もお遍路さんの姿が絶えません。

四国八十八箇所第八十一番札所白峯寺(しろみねじ)
 

この白峯寺の一角に頓証寺殿(とんしょうじでん)と呼ばれるお堂があります。 国際日本文化研究センター教授で民俗学者の小松和彦さん。 実在した人物が神に祭られた事例を研究している小松さんは、今回、この頓証寺殿を訪ねました。

頓証寺殿に祭られているのは、平安時代末期、朝廷内の権力争いに翻弄された崇徳上皇です。 崇徳上皇も神に祭られた日本人の一人。 保元の乱に敗れ、流罪となってこの四国で没した、その怨みは凄まじいものがあったといいます。

頓証寺殿(とんしょうじでん)
 

小松和彦さん
「 崇徳上皇。 私は、怨霊でも最大級の怨霊と考えております。 しかも怨霊の歴史の中でも崇徳上皇は、死ぬ前から自ら怨霊になってやろうと、 決意して死んでいった上皇だったからです。 自分を落としいえれた天皇たち、後白川たちをずっと呪ってやるみたいな。 ですから、はっきりと確信をもって、生前から天皇家を呪うと言って死んでいった。 そして亡くなってから凄い怨霊になって都を襲うというわけですから、 大変に興味深い画期的な怨霊だったと思っています。」


1119年、時は平安時代の末期。 崇徳上皇は、鳥羽天皇の第一皇子として生まれました。 しかしその出生には初めから不吉な影がさしていました。 実は彼は、鳥羽天皇の子ではなく、鳥羽天皇の祖父、白川法皇が母(璋子)と密通した結果生まれた子と言われていたのです。


小松和彦さん
「 鳥羽天皇は自分の子でありながら崇徳天皇のことを「叔父子」と言って呼んでいたというわけですから。 初めからこれは自分の子どもではないと、おじいさんが自分の奥さんと不義を犯してつくった子どもだというわけですから、 社会的には自分の子どもになってますけども、最初から「叔父子」というふうな言い方をして嫌ってた。 本当に複雑な人間関係の中で生まれてきた、ある意味では呪われた天皇であったというような宿命をもっていたと思われます。」


崇徳は5歳の時、即位して天皇となりました。 しかし、当時はいわいる院政の時代。天皇に実権はありません。 天皇の父、または祖父が、治天の君と呼ばれ全てを掌握していたのです。 崇徳の時代、治天の君は、父、鳥羽上皇でした。 崇徳は、やがて自分の子が天皇に即位し、治天の君となる日を待つしかありませんでした。 しかし、事態は思わぬ方向へ進展します。 鳥羽上皇は、若き后が皇子近衛を生むと崇徳を退位させ近衛を天皇としたのです。 さらに、その14年後、近衛天皇が若くして死ぬと今度は崇徳のすぐ下の弟、後白川を天皇にしました。 このままでは、崇徳は天皇の系統から外れ治天の君の座も手にすることはできません。


小松和彦さん
「 院政の時代ですので、退位したらやがて自分のところに実権をもった権力がやってくると思っていたのですが、 お父さんがまだ実権をもっていたので、お父さんの意向で物事が動いていくので我慢するしかなかった。 しかし、鳥羽上皇は嫌っておりましたのでなるべく崇徳には権力を渡したくないという思惑がありました。 そして後白川が即位したということで昔年の怨みみたいなものが噴出してくる。 それでも鳥羽上皇が居る間は我慢していましたけども、お父さんが亡くなった時、 院政としての権力が、この機会を逃すと自分に権力が来ないというので反乱を起こし、武力で権力を取ろうということになたのです。」


事態が急展開をみせたのは後白川天皇が即位した翌年です。 突如、鳥羽上皇が亡くなったのです。(1156年、鳥羽上皇崩御) 権力の座を巡って崇徳上皇と後白川天皇の兄弟が対立します。 それは台頭してきた平家と源氏の勢力をも二分し、ついに1156年保元の乱が勃発します。

戦局は一機に決着したといわれています。 後白川天皇方の軍勢が崇徳の立てこもる屋敷を急襲しそれが功を奏したのです。戦いはあっけなく終わりました。


小松和彦さん
「 崇徳側が貴族、武士を巻き込んでクーデターみたいなことを起こそうしたわけですが、 すぐ発覚しましてほんの数時間で崇徳側が敗北するという形で決着がつきます。 崇徳は負けると思って投降し、讃岐に流される。 9年間讃岐に居て都に帰ることを望んでいたのですが、 結局戻ることができず、最後は讃岐の地で亡くなるということになりました。」


保元の乱で敗れ、捕らえられ、流刑となった崇徳上皇は、遠い讃岐の地で失意の日々を送りました。 崇徳はこの地で保元の乱を悔い都に奉納するために3年がかりで190巻に及ぶ写経をしたと伝えられています。 しかし、その経文は都から送り返されました。 落胆と怒りに燃えた崇徳上皇は、経文に自らの血で呪いの言葉を書き付けたと言います。 「日本一の大魔縁となり『皇を取って民となし民を皇となさん』」 (私は妖怪となり天皇家の権力を失墜させてやる) と言うのです。


小松和彦さん
「 彼は都に帰ろうろし、保元の乱を起こしたことを悔いて、自分の指先から血を出して血でお経を書いて反省してた。 それをすることによって罪が許されると思ってたんですが、許されなかった。 それでお経の最後に「天下を覆すためにこの経を海に沈める」というようなことを残したと言われてます。 崇徳が亡くなってからそのお経が発見される。 はっきりと確信をもって生前から自分を陥れた天皇家を呪うと言って死んでいった。」


流刑から9年の後、無念の思いを抱いたまま崇徳上皇は讃岐の地で亡くなりました。 その遺体を安置していた場所に建てられたのが坂出市内にある白峰宮(しろみねぐう)です。

白峰宮のすぐ横にある湧き水。八十場の泉(やそばのいずみ)。 崇徳天皇の遺体が痛まないよう都からの指示があるまでこの湧き水を掛け流したと言われています。


小松和彦さん
「 讃岐のいろんな所に崇徳上皇の伝説が生まれています。 それがどんどん膨らんで、ある意味では崇徳上皇の物語は敗者の物語の中でも非常に印象深いものになっていったんだと思っています。」


坂出市内に血の宮とも呼ばれている神社があります。(高家神社(たかやじんじゃ))ここにも崇徳上皇の伝説が伝わっています。

荼毘に付すため崇徳の遺体が運ばれる途中、雨雲が立ち込め激しい雷雨が一行を襲いました。 その時、棺を置いた石に血がべっとりと付いたという伝説です。

崇徳上皇は、瀬戸内海を見下ろす白峰山、その山頂付近にある白峯寺で荼毘に付されました。 現在、白峯寺からほど近い場所に崇徳上皇の陵(白峯御陵)、いわいる墓が置かれています。

荼毘の煙についても伝説があります。 煙はいつまでも空に上ろうとはせず、都の方角、東の山麓にたなびいたというのです。

崇徳上皇の死後、10年程が経った時、都は2年続けての大火事に見舞われました。その他、疫病、飢饉なども続きます。 誰となく、これは崇徳上皇の怨霊の祟りだと噂しました。

小松和彦さん
「 崇徳上皇の亡くなった後すぐに怨霊になったわけではありません。 崇徳上皇に対して様々なかたちで申し訳ないというのでしょうか。 失脚させたり、都に帰さなかったり、罪を許さなかったりした側の人たちに、ある後ろめたさ、申し訳なさ、罪悪感みたいな、 そういう思いがだんだん膨らんでくる中から、様々な災悪が、例えば身内に病気が起きるとか、或いは、都その他天下に天変地異が起きるとか、 そういうような事柄を、ひょっとしたら崇徳上皇の怨霊のせいではないだろうか、というふうな考え方になっていって生まれてくる。 ですから、言ってみれば勝った側が怨霊を生み出すというふうに言っていいと思います。」

「 崇徳上皇もそうやって徐々に、10年ぐらいの時間が経った後、だんだん怨霊になっていったというふうに思われます。」

崇徳上皇の怨霊
 

火事や疫病といった災悪が続いたことから崇徳を追いやった後白川法皇も御所を整備し、陵を守る者などを配備するなど、 崇徳上皇の供養を本格的に行いました。この頓証寺殿(とんしょうじでん)は、その時に造られたものです。

頓証寺殿(とんしょうじでん)
 

しかしその後、天皇による支配体制は結局崩壊していきます。 平家や源氏など、武士たちが力をつけ武家政権の時代になっていったのです。(天皇による支配から武士の時代へ) 天皇家を怨んだ崇徳の呪いが実際のものとなったのです。 その天皇家が再び歴史の表舞台に登場するのは、700年の時を経た明治時代。 江戸幕府が倒れ、天皇を中心とする政権へと変わったのです。 この時、明治天皇は、崇徳の祟りが再び復活するのを恐れました。 そして明治政府によって京都市内に白峰神宮が建てられました。

京都市、白峰神宮
京都市、白峰神宮
 

小松和彦さん
「 いちばん大事なのは、勝った側の後白川たちがその後、崇徳のことを、 自分たちの身の回りに起こる不吉なこと、天変地異を恐れ必死になってお祭続けたことです。 それでも、いちばん恐れていたのは、その後、崇徳が望んだように、 呪詛の言葉通り、それまでの皇朝時代は幕を閉じます。 そして、その時雇った傭兵である源氏、平家が台頭してきて、源平の争乱の末、 武家政権ができてしまうわけです。 ですから、崇徳の怨霊(呪い)というのは実現したわけです。 延々長い間、武家が支配しておりました。 そういう意味で、皇朝時代の幕を閉じ武家政権の幕を開ける大変重要な役割を崇徳という呪われた天皇が演じることになったということだと思います。 それがいちばん大きな役割だと思います。」

「 もう一つは、やがて武家政権が倒れ近代明治国家ができた時、 これは天皇を中心とした皇権です。 その時に、長い間政権の座から奪われていた天皇家がいちばん心配したのは、 崇徳の霊だったんです。 ですから、崇徳の怨霊がまた再び天皇家を呪うのではないか、ということを心配しまして、 明治天皇が京都に、ここから改めて崇徳上皇の霊を迎えて、白峰神宮を造って、 『どうか、これから我々が天皇中心の国家を作るけれど祟らないで欲しい』と、 いうような想いを伝えたというふうになっておりますので、ずっと生き続けたんですね。 ですから、いろんな形で、生き続けて、天皇家の中でも実は潜在的に恐れられ続けていた霊だったと。 明治になってもそれが生きていたと、記憶されていたということではないかと思います。」

「 そういう意味では、ここはまだ生きている崇徳の霊が鎮まっている。 なんかの時には、それが蘇って、眠りから目を覚ますかもしれない、というような気配を感じるような聖地です。」


     
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12 Aug. 2008
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