♪ WARATTE SPECIAL ♪

TOMORROW 地球の奇跡、日本の農のめぐみ The miracle of the earth - agriculture in Japan いのちは支えあう 第3次生物多様性国家戦略 BIODIVERSITY

♪ WARATTE PHOTO REPORT ♪


♪ MAIL ♪

Your voice is welcome メールを送信する メッセージフォームをつかう



日本人の心を守れ
岡倉天心、廃仏毀釈からの復興




大勢の観光客や修学旅行生で賑わう奈良。 手を合わせる先にたたずむのは、千年を遥かに超える時を経て今に伝わる仏像の数々です。 実は、今から140年ほど前、これらの仏像は壊滅的な危機に瀕していました。

明治維新の最中に起きた仏教排斥運動廃仏毀釈の嵐が吹き荒れると、仏像は次々に破壊されたのです。
「このような惨い仕打ちが許されて良いのか」
仏像を救おうと立ち上がったのが岡倉天心
後に、近代日本美術の発展に貢献する人物です。

文部官僚となった天心は、傷ついたまま放置された仏像などの文化財21万点を調査します。 その中で天心は、仏像が美術品であると同時に、いかに人びとの信仰の対象として崇められ、 日本人の心の拠り所になっているかを痛感します。

しかし、急激な西洋化が進む明治日本で、仏像保護を訴える天心の志は、なかなか実を結びません。 それどころか、西洋化の波に乗るグループ西洋美術派からの妨害受けた天心は、 ついに公職を追われます。(失脚)

傷ついたまま放置された仏像
傷ついたまま放置された仏像
 

これからは自分で仏像の保護を手がけよう。
天心は、仏像修理を行う民間団体を設立。 天平時代屈指の名作、東大寺の「不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)」の修理に挑みます。

しかし天心は、どのような修理を施すかで深く悩みます。 信仰を重視した修理か、それとも美術的価値を重視した修理か。



岡倉天心が見た仏像の惨状



明治13(1880)年8月。
古都、奈良。
この地をアメリカ人を伴った日本人の青年が訪れました。 東京大学を卒業したばかり、17歳の岡倉天心です。 アメリカ人は、東京大学教授のお雇い外国人アーネスト・フェノロサでした。 天心は、仏像などの美術品を見たいというフェノロサのために、通訳として同行しました。 しかし、楽しい旅行もつかの間、天心は仏教美術の荒廃に衝撃を受けます。

両手、両足の部分を失った仏像の数々。
もげた首。そしてもはやどこの部分かわからない破片など。
山のように積まれて捨て置かれていたのです。
天平時代の傑作「阿修羅像」も腕が欠け落ち、傷々しい姿をさらしていました。
なぜこのような事態に陥ったのか。

仏像の荒廃は、天心が奈良を訪れる12年前、戊辰戦争のさなかに新政府が出したある命令がきっかけでした。 神と仏を分ける。いわいる神仏分離令です。 それまで日本の各地では、神道の神と仏教の仏が混在する神仏習合の状態が色濃く続いていました。

奈良興福寺の破損仏
 

天皇を中心とする新しい国づくりを、神道を国の宗教と定めることで行おうとした新政府は、 神道から仏教を明確に分けようとしたのです。 「神社に置いてある仏具は取り除くこと」

しかしこの命令は、思わぬ事態を引き起こします。 神仏分離令を拡大解釈し、仏教を悪しき伝統ととらえる人びとが現れ始めたのです。 そうした考えを抱いた人々は、仏像やお堂を破壊するという過激な行為に走ります。 仏教排斥運動、廃仏毀釈です。 破壊の嵐は、瞬く間に全国に広がります。
島根県隠岐の島でも島内にあった46の寺全てがことごとく破壊されました。 この寺にも人びとが押し入り、千年以上も前から伝わる仁王像を引きずり出します。 足の部分は膝下から切断。両腕の部分はもがれ、どこにいったか行方が知れません。 猛々しかったであろう顔は、面影が残らぬほどに潰されています。

廃仏毀釈が吹き荒れる中で、仏門に生きる人の中には、流れに抗(あがら)えず寺を後にする者も現れます。 天心が訪れた奈良興福寺では、既に僧侶全員が隣の春日大社の神官になっていました。 その数は、実に百人以上に上ります。

僧侶が居なくなった興福寺は悲惨の一途を辿ります。 奈良時代から伝えられる貴重な経典。 その多くは売られ、店で商品の包み紙に使われました。 五重塔は当時5両。 今の価値にしてわずか2万円で売り飛ばされます。 仏像に至っては千体以上が寺から流出。 ある物は壊され、ある物は薪として燃やされました。

これは燃やされる寸前にかろうじて天心が手に入れた30センチメートルの小さな観音像です。 両腕の部分は切り取られ、背中の部分は鉈で割られて、薪としてくべられました。 傷々しいこの一体の観音像を前に、天心は一つの決心に至ります。

「一体でも多くの仏像を救おう」

30センチメートルの小さな観音像
 

廃仏毀釈が始まって既に12年。 日本の伝統美でもあった仏教文化は、壊滅的な危機に瀕していたのです。
天心の言葉です。 「遺跡は血に染まり、緑の苔まで生臭い、鬼や霊が古庭で吠いている」

明治13(1880)年10月。 天心は文部省に入省し、文化財保護の道を志します。 それは、東大寺の「不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)」の修理が成功する23年前のことでした。


茨木大学、小泉晋弥教授
「 まさに廃仏毀釈の状況というのは、明治という時代がいかに大きな変革期だったか、ということをまざまざと教えてくれると思います。 あれと似た状況というのは、私たちは、極最近、バーミヤンで石像が破壊されるというのを映像で見て大変なショックを受けましたけど、 ああいうことが日本各地で本当に起こっていたんだ。 というのを天心の時代を想像する時に必要なことだろうと思います。」

「 当時の人にしてみれば、江戸幕府は消えていく、殿様が消えて、武士が消えて、刀が消えて、どんどん旧制度が消えてゆく中で、 今度は仏像、仏教も消えていいのだ、というとこまで考えてしまったのではないかという気がいたします。」

「 天心が言う 『鬼や霊』 というのは、まさに仏像に込められた当時の日本人の精神そのものなんだ、 というふうに考えていいんだと思います。 それが、仏像が壊れることによって、日本人の精神がよりどころをなくして、幽霊のように、実態としての仏様、仏像失ってしましって、 精神だけが浮かんでいると。 そういう状況を奈良で、天心は感じたんじゃないかと思っていいと思います。」




岡倉天心、仏像保護に挑む



文部省に入った岡倉天心は、奈良や京都を訪れては細々と寺の調査を始めます。 仏像の被害状況を調べることで、美術的価値の高いものをみつけ、少しでも後世に残そうとしたのです。 この調査を続けるうちに、天心は、ありきたりな、しかしとても大切な光景に目を止めるようになります。 それは、仏像に対面しひたむきに祈る人々の姿でした。 天心は、仏像が伝統的な美術品であると同時に、今もって信仰の対象でもあることに改めて気づかされたのです。
「仏像を守ることは、そこに込められてきた日本人の精神を守ることに繋がるのではないか」

天心は、仏像を保護したいという思いをさらに深めていきます。

これは、天心が文部大臣に宛てた意見書の草稿です。
ここに天心の強い意志が現れています。
「全国にある古来の美術品は、まだ何の保存法も設けていない。 今日、これを顧みなければ、取り返しのつかない事態に至るだろう。」

岡倉天心が文部大臣に宛てた意見書の草稿
 

天心が温めていたのは、文化財保護の法律を作ることでした。 国家として取り組まなければ、残された仏像もいずれは消滅し、 日本人の精神が失われていくと考えてたのです。

しかし、天心の考えては容易には受け入れられません。 明治日本には伝統美術に対して逆風が吹いていました。
脱亜入欧
当時、欧米列強に追いつくことを至上命題としていた日本は、 盛んに西洋文化を取り入れます。 中には、西洋文化を重んじる余りに、日本の伝統文化を否定する人びとも現れていました。

ある外国人の言葉です。
「今の日本人は過去についてしきりに恥じている。 中には 『我々は日本人に歴史はありません。今からやっと始まるのです』 という人さえいる」
「ベルツの日記」より

こうした状況を打開するため天心は一計を案じます。
「政府のトップを動かすしかない」
天心が頭に浮かべたのは、時の総理大臣伊藤博文でした。

明治19(1886)年、天心は、あのお雇い外国人フェノロサに協力を仰ぎ、 日本絵画の鑑賞会に伊藤を招きます。 そして、フェノロサの口から次のような言葉を伝えてもらいます。
「日本の伝統美術は西洋に匹敵する」
天心は、日本独自の文化と精神にしっかり誇りをもつこそが、西洋と対等に付き合うことに繋がると訴えたかったのです。 フェノロサの言葉に伊藤も心を動かされます。

こうして今まで軽んじられていた日本の伝統文化を保護する方針が打ち出されることになるのです。

半年後、明治19(1886)年、10月、天心は、伊藤の命を受けてヨーロッパに渡ります。 外国の美術品の管理状況を視察し、日本の文化財保護に役立てるためでした。 その旅の途中、天心の目はある美術品に釘付けになります。 首や手足の部分を失った胴体だけの彫刻。 すなわちトルソーです。 それは、首や手足の部分が欠けているにもかかわらず、 見る者を圧倒する美しさを今も称えていました。 天心は考えます。 西洋ではたとえ欠けた部分があっても美術品として評価される。

首や手足の部分を失った胴体だけの彫刻、トルソー
 

しかし日本の仏像は、美術品であると同時に信仰の対象でもある。 部分が欠けていては信仰の対象にはなり得ず、かといって、 やみくもな修理をすれば美術品としての価値を損なう。 どうすればよいのだろう。

これ以降天心は、この難しい課題に向き合い続けていくことになります。

破損仏
 

天心の海外視察から10年を経た明治30(1897)年、 日本に天心念願の文化財保護法が成立します。 古社寺保存法です。 天心が長年訴えていた貴重な仏像などの保護や修理を、国が行うことを定めたものでした。

天心は、既に東京美術学校の校長や帝国博物館の美術部長を兼任し、実質的に美術行政を取り仕切るようになっていました。 しかし、法律制定のあくる年、古社寺保存法に基づきいよいよ仏像修理に取り掛かろうとした時、天心に思わぬ事態が起こります。 天心を貶める怪文書が流されたのです。
「岡倉は幾万の国の財産を費やしておきながら、美術の発達に背を向け、その進歩を妨害している。」

この頃、天心は、西洋美術派のグループに、日本の伝統美術を重視しすぎると非難されていました。 明治31(1898)年、3月、天心は、怪文書によって公職を追われます。 それは、東大寺の「不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)」の修理が成功する5年前のことでした。



日本人の心を守れ



怪文書によって失脚した天心。 しかし、仏像を修理しよういう情熱は一民間人となってもなんら変わりませんでした。 天心は、公職を解かれた3ヶ月後の明治31(1898)年7月には、 民間の美術団体、日本美術院を立ち上げます。 集まってきた弟子たちを前に、天心はその決意を伝えます。
「我々の手で、仏像修理をやり抜こう」

天心は、古社寺保存法に基づき修理の第一候補に上がっていた仏像に目を向けます。 それは、東大寺法華堂の「不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)」です。 全長3.6メートルに及ぶ天平彫刻の傑作で、千三百年近くに渡り、人びとの信仰の対象になってきた仏像でした。 傷みが酷く早急な修理が必要でした。

観音像のお腹の部分。

これが現在です。

現在の不空羂索観音像
 

一方、こちらは修理前。

修理前の不空羂索観音像
 

当時天心が目にした観音像は、身にまとう衣が壊れてバラバラになっていました。 更に、脇にはべる日光菩薩像も指が欠け落ちていました。 四天王像の一体、多聞天。 その足元にいる邪鬼は、頭が壊れ中がむき出しの状態でした。

しかし、こうした仏像を前に、天心は手を付けられずにいました。 日本の仏像には、美術的価値と共に信仰の対象であるというもう一つの価値があり、修理法が見出せなかったからです。

これまでの修理は、仏師たちによって次のように行われていました。
仏像に欠けている部分があった場合、信仰の対象となりにくいために元の形を厳密に突き詰めることなくある程度の形のものを取り付けて間に合わせていました。 しかも、接合面を平にして取り付けやすくするため本体を現状よりさらに傷つけることも度々でした。

こうした修理方法は、天心にとって仏像を信仰の対象としてのみとらえ、美術的な価値を顧みないものでした。 天心の脳裏に浮かぶのは、かつてヨーロッパ視察の時に見たあのトルソーでした。 顔や手足の部分が欠けていても、力強い美しさが伝わってきました。 しかも、制作した人の意思を曲げることのないよう余計な手を加えず、長い間その姿を維持させてきた管理の仕方、 そこに天心は、文化財保護の原点があると考えました。

信仰の対象となりえて、かつ美術的価値を損なわないで修理するにはどうすればよいのか。 悩みぬいた天心は、ようやく一つの方法に辿り着きます。

天心が考えた修理。
まずは、欠けている部分をその原形を厳密に考察した上で、壊れている箇所の形に合わせて作ります。 そして、それを仏像本体に置いたり、弱い接着剤で付けたりすることで、 決して本体そのものを傷つけることなく現状に近い状態で保つ。 これが後に、現状維持修理と呼ばれる方法です。

明治34(1901)年12月、天心は最も信頼を置く弟子に、 不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)を初めとする東大寺法華堂の仏像修理を任せます。 当時33歳だった新納忠之介(にいろちゅうのすけ)。 新納は、現状維持修理の考えを実現すべく作業に取り掛かりました。

指の部分が欠けていた日光菩薩像。
まず、対になる月光菩薩像の指の形を丹念に調査しました。 そして、同様の指の部分を別に造り、欠けている箇所に置くだけの接合を行いました。

たま、多聞天の足元に居る邪鬼の頭は、別の四天王の邪鬼を参考にして制作しました。 接着剤は使わず、素材に粘土を用いることで、その自然の粘着力を生かして取り付けました。

更に、ばらばらに壊れていて適当に付けられていた不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)の衣。 正しい位置に戻し、欠けている部分を造って補いました。

指の部分が欠けていた日光菩薩像
 

そして、その時。
明治36(1903)年5月1日。
不空羂索観音像(ふくうけんさくかんのんぞう)を初めとする東大寺法華堂の仏像修理が完了します。 仏像の本体を一切傷つけず、信仰と美術、二つの価値観を両立させた修理が成功したのです。 古都奈良の惨状に衝撃を受けて仏像保護を志したあの日から、既に23年の歳月が流れていました。

天心は、その後も新納に命じて東大寺戒壇院の四天王像の修理や、 興福寺の阿修羅像などの修理を手がけていきます。 その数は、実に2千体を超えました。 朽ち果てようとしていた数々の仏像は、岡倉天心たちの情熱によって蘇り、 今日、私たちの前にその優美な姿を現しているのです。

岡倉天心たちの情熱によって蘇った仏像
 

茨木大学、小泉晋弥教授
「 現状維持修理法という考え方ですけども。 一番大事なことは、修理箇所をそのままいつでも取り外すことができるということが最大のポイントです。 なぜ、修理箇所が取り外せなければいけないか、というと、 もし、修理した時よりも、もっといい技術が開発されたら、その技術を使って直した方が、より良い修復ができるんだと。 それが根本的な考え方で、これは当時の文化財保存には無い画期的な、まさに独創的な考え方だったと思います。」

「 その考えをいかにして実現していくかというと、新納と美術院が努力を重ねていって現在の仏像修理法が確立していったんだ、というふうに言った方がいいと思います。」

「 一番肝心な、天心が考えていたことは、そのオリジナルな形はいったい何か、ということなんですね。」

「 それは要するに、美術品とか文化財というのは、ただの物体ではなくて、人びとの、千年前なり、五百年前なりの精神が形となってそこにあるものなんだと。 人びとは、それに触れることによって、今の時代に生きながら、過去の人びとの精神と交流ができると。 それが、岡倉天心が考えてる文化財の本質であり、或いは、信仰に触れるということなんですね。」

「 前のものを否定して近代化するのではなくて、伝統を次の世代に受け継ぎながら、新しいものを考えていくという。 これが、本当に近代的な考え方なんだと思います。」


大正2(1913)年9月。
岡倉天心は、療養先の新潟県で病没します。享年50。 仏像修理の方法を編み出した奇才は、実は、人を育てる天才でもありました。 仏像修理の新納(にいろ)を初め、横山大観や下村観山など、その後の日本の美術界を担う逸材が天心の薫陶(くんとう)を受け羽ばたいていきました。

天心が残した言葉です。
「 昔から日本には、外国からの思想が殺到してきたが、日本人は伝統を尊重し、みずからの個性を大切にしてきた。 我々は、今後もさらに西欧化していこうとしているが、世界から尊敬を得るには、我々自身の理想に忠実であることを忘れてはならない。 」

 

13 Aug. 2008
Go Report Index

 

Feel human being この人の生き様 on Web Magazine Waratte ! No Smile No Life

2007.12.21
ウツの時代、五木寛之さんの話から
2007.12.22
走った距離は裏切らない、女子マラソン野口みずきの挑戦
2008.01.07
あの人からのメッセージ2007、気骨の人たち、城山三郎
2008.01.12
パブロ・ピカソ作「ゲルニカ」20世紀の黙示録
2008.02.11
人権活動の最前線から 女性と子どものいまと未来
2008.05.03
「私はダメじゃない」を貫いて、漫画家 一条ゆかりの創作の原点
2008.05.05
『 カリアティッド 』 アメデオ・モディリアーニ、薔薇色に燃えて散った男の一枚
2008.05.15
ドストエフスキー 「白痴」  入り口も出口もない物語
2008.05.23
オリンピックとわたし 有森裕子
2008.06.13
魂の大地 ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
2008.06.14
孤高の人、フィンセント・ファン・ゴッホ作、『古靴』
2008.07.13
「山 富士山」片岡球子
2008.08.13
日本人の心を守れ-岡倉天心、廃仏毀釈からの復興
2008.09.17
わたしの ” じいちゃんさま ”-写真家、梅佳代
2008.10.29
神々のうた、大地にふたたび アイヌ少女・知里幸恵の闘い
2008.11.12
他人まかせの巻-横尾忠則 「少年」の心得-
2008.11.13
ニッポンを主張せよ アーティスト 村上隆
2008.11.15
I Have a Dream キング牧師のアメリカ市民革命
2008.11.29
漫画家  西原理恵子「トップランナー」での発言集
2008.12.08
プロ魂 王監督のメッセージ
2008.12.20
一人、そしてまた一人  マザー・テレサ 平和に捧げた生涯