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他人まかせの巻
人生の歩き方 画家 横尾忠則 「少年」の心得


編集:2008.11.05
掲載:2008.11.12



画家 横尾忠則。72歳。


横尾忠則
「 僕の作品観ていただいたかと思うんですけど。 いろんなスタイルの絵があるわけでしょ。 あれ、いろんなスタイルの絵を描こうと思って描いてるわけじゃないんですよ。 描いてるうちに、この絵に関してはこんなスタイルの絵になっちゃった。 この絵に関してはこういうスタイルになちゃった。て。 そういうふうに僕がしてるんじゃなくて。 絵が自体が勝手に自分のスタイルを決めてるわけです。 絵に責任を持たせちゃうんです。 僕、責任取らないんです。 」


出発はグラフィックデザイナー。 強烈な色彩と斬新なモチーフ。 稀代のスーパースターも横尾の世界に染まった。 常に時代の先端をいく広告を生み出してきた。

しかし46歳の時、突然の画家宣言。 以来30年近くキャンバスに向かっている。 今画家として彼は何を描こうとしているのか。


横尾忠則
「 子供のころね、家に絵本がありまして、伝記的なものだとか、 そういう英雄とか、そういった人たちの一代記を書いた本があったんですよ。 その中の宮本武蔵というのがありまして、でその、模写してたんですね。 何十年か経ってふと、子供のころの目で、視線でいろんなものを見てるということにはたと気づいたんですよ。 それで、じゃぁ子供の時代へ一度降りて行って、で、そこで改めて子供のころに体験したものを絵のモチーフにしてみようというので。。。。 」


1936年、兵庫県西脇市で横尾忠則は生まれた。幼いころから気がつくと絵を描いている少年だった。5歳の時に描いた絵が今も残っている。

武蔵と小次郎。
ご存知、巌流島の決闘。なぜこんな絵が描けたのか。横尾少年が描いたのは「偉人伝」の挿絵。他人の描いた絵を模写するのが実にうまかった。

横尾忠則が5歳の時に描いた武蔵と小次郎の絵
 

興味があったのは模写



横尾忠則
「 そうですね。物心ついたころからやってたようですね。 だからね、子供が落書きしたり、それから、家があって木があって太陽があるような そういうのを描いた記憶がほとんどないんですよ。 もう最初から誰かの描いたものを、それを見て写すということに興味があったんです。 だから自由画とか写生は一切興味なかったです。 『絵というのはそういうもんだ』と自分で思っていたわけですね。 自分で想像してし、なんか独自なスタイルの個性的な絵を描くというのには興味なかったんです。 だからとにかく誰か偉い先生方が、絵描きさんが、描かれたものを、特に絵本ですけどね、それを写すというのに興味があったわけですよね。 」

「 描きたいという意思はあったんでしょね。 そうでないとね。まぁ、とにかく、そっくり写したいという気持ちが強かったですね。 」


横尾は、年老いた両親の一人息子として育てられた。 父は、自転車で反物を売って生計を立てていた。 暮らし向きは楽ではなかったが、横尾が欲しがるものは何でも与えた。

横尾少年は、自分の意思は通らないことはない、と思っていた。 食卓のおかずが気に入らないと言ってぶちまけても両親は文句ひとつ言わなかった。


横尾忠則
「 僕、一人っ子ですからね。だから、わがままって言うのかな、親を困らせるわがままとかね、 ガキ大将とか、そういうのとは全然反対ですね。 そういう意味では、親の過保護を受けて育ってますからね。 だから、僕の要求するようなもの、大したもの要求しないんですけど、 要求するものは一応親がちゃんとそれなりに応えてくれたわけですね。 」

「 叱られたこともないんですよ。呼びつけられたこともないんですよ。『忠則』って言われたこと一度もないんです。 」

「 僕は子供の頃から『たーちゃん』って呼ばれてたんです。 それで、僕は自分ことを自分で『たーちゃん』って呼んでましたからね。高校ぐらいまで。 」

「 そうですね。だから溺愛されてますでしょ。 ちょっと僕の姿が見えなくなると大きな声上げて僕を探しに来たり。 そういう意味でテリトリーが凄く狭かったですね。 メス猫みたいに凄くテリトリーが狭くって、テリトリーから僕が姿が消えると、母親なんか探しに来るんですよ。 用があてもなくても。そういうふうな過保護っていうですかね。僕も大胆になれない部分もありましたね。 」

「 普通はそれに対して反抗して大胆になるタイプの人もいるけれど、 僕は逆にそのことによって行動範囲が凄く狭かったです。 」

「 別にそんなもんだろうと思ってるんでしょうね。 」


両親が自分を溺愛した訳を高校生になって知った。きっかけは市役所の戸籍係のアルバイト自分は父親の弟の子供だった。


横尾忠則
「 まず自分のところを見てみようと思って、見たら、『養子』になってたわけですよね。 」

「 なんとなくね、僕の中に小さい頃ですけど、よく両親がね、『おまえは橋の下で拾ってきた子供』とかね、 よくそういうふうに言ってました。それから、そう言われるといやでもないんですよ。 なんか『ロマンチックな話』だな、ちょっと『悲劇的な主人公』になるのもいいなぁ、という、無意識の中にありましたよね。 だから戸籍で調べた時に、もうどこかに今育ててくれてる親が実の親でないていうのも物語的でロマン主義的でおもしろいんじゃないかな、っていうのがどっかにあって、 それで見ると案の定っていう感じで。 」

「 子供って皆ロマンチックなところがあるから。 だから物語の主人公になってみたいとか、 童話の世界とか、フィクションの部分で生きてみたい、 っていう気持ちは、子供は皆持ってるんじゃないかなと思うんですね。 」

「 知ったってことを両親には言わなかったですね。ちょっとぐれてみようかな、って考えましたよ。 」

「 ぐれるのもエネルギーがいるしね。面倒臭いし。ぐれたところがどうってことないし。っていうことでね。 」

「 だから面倒臭いって。それはそうっかっていうんで、自分の運命っていうのかな、宿命っていうのか、 それはわりかし素直っていえるか、受け入れましたね。 」

「 両親は最後までそのことは話はしなかったんです。 だから、僕はそのことを知らないまま大きくなってるだろうなと思って、自分たちもそう思って死んだと思いますね。 」



将来の進路


高校2年生になると、将来の進路決めなければならない。 家の経済事情も考え、就職の道を選んだ。 好きな絵の道も思い浮かんだが、それ以上になりたい職業があった。 それは郵便局員。子供の頃からの憧れてあった。


横尾忠則
「 あのね、まず、切手集めたりね、そういったことが大好きだったこと。 後、文通ですね。まぁ文通ったって外国の映画スターに手紙を、ファンレターを出したり。 」

「 終戦後すぐですね、今英語全然しゃべれないし、ヒアリングもできないですけど、終戦後、英語漫画が当時流行ったんですよ。 そういうなのを読んだりしながらね。で、すぐファンレターを書いて。 」

「 女優さんなんかによく出してました。例えばね、エリザベス・テイラーとか、いろんな人出したんですよ。 返事を、手紙をもらったのが、エリザベス・テイラーは手紙をくれました。本人からちゃんとタイプにして。 そしてプロマイドに僕の名前と自分の名前を入れてくれて、手紙の文章も書いて。 」


ファンレターを出したのは当時ハリウッドを代表する大スターだったエリザベス・テイラー。 彼女からの返事が横尾少年に届いたことは大きな話題となった。手紙には素敵なプレゼントも同封されていた。


横尾忠則
「 僕、切手集めてるって言ったもんだから、彼女に世界中からファンレターが来るでしょ、 その封書を破いて、それが中に詰めて送ってくれたんです。 」

「 たぶんね、絵も、似顔絵だか肖像画を描いて送ったと思うんですよね。 だけどね、そうしたと思うんだけど、手紙の内容を見るとそんなこと一言も触れてないんですよ。 だから、やっぱり手紙だけだたのかな。と今思ってるんですよね。あんときは描いたような気がするだけで。 」


就職お決めた横尾の前に、新任の美術教師が現れた。 「油絵をやってみないか」  勧められてはじめた油絵でめきめきと腕を上げた。 作品は多くの展覧会で入賞。市町村が募集するキャラクターの懸賞にも応募。コンクール荒らしと呼ばれた。

そして、地元商店の包装紙をデザインするようになもなった。ひとつの出会いが横尾の進路大きく変えることになった。


横尾忠則
「 よくいろんな懸賞とかあるでしょ。こういったところに応募したり、そんなことやってたんですよ。 そうするとそれはそれなりに小遣いが稼げたんですね。大した金額じゃないですけど。父親より僕の稼ぎの方がよかったですよ。 」

「 結局は郵便局員ならなかった。残念ですよね。 東京から洋画の先生が来られて油絵を教わるわけですよ。 で、 『展覧会出しなさい』 って言うんで、展覧会に出してたりしてたんですよ。 そうすると、まったく僕は自身ないんだけど、 それで入選したり賞とったりするんですよね。 それから、東京の上野の団体展ってありますよね。 大人が出す美術展ですけどね。 それに出したりして入選したりするので、 先生が 『郵便屋さんなんかならないで絵描きさんなるために東京の美術学校入んなさい』  って言われて、それで担任の先生も校長先生までがうちの父親を説得して、 別に美術学校なんか入りたくないのに無理やりね。 高校3年生の時に進学コースに編入させられて、 がり勉させられて、それで試験を受けに、 ちょうどその頃東京にその先生帰ってらっしゃったんですね、 で、その先生の家で下宿しながらデッサンの勉強して。 」


上京すると先生は横尾に石膏デッサンをするように言った。それが受験では重要視されるからだ。 右も左もわからない東京の狭いアパートで、一日中言われた通りにしていた。

しかしその受験前夜。


横尾忠則
「 いよいよ明日が試験だという日に、その前の夜先生がちょっと話がある、 もう寝てたんだけど、布団の上座らされて、  『明日の試験は受けないで帰りなさい』 って。 それでそのまま帰ってきたんですよ。 」

「 夜中にね帰って来られて明日の試験の注意事項を僕に与えるのかなって思ってたんですよ。 もう寝てたのに、眠いしね。 かえってこんなの試験に差し障りなるのになと思いながら。 そしたら、そうじゃなくて 『帰りなさい』 って言うんだよ。 」

「 もうあの頃両親は無職だったんですよ。 無職で。僕は甘く考えてるところがあったんですね。 バイトでもしながら自分の学費はなんとかする、それで稼ぎが良きゃ郷里に仕送りをするぐらいの、甘く感じてたんですよね。 」


そんな横尾を先生は諭した。
「学費や生活費を稼ぐと言っているが君の考えは甘い」
「明日の朝 帰りなさい」


突然の帰郷



横尾忠則
「 夜行列車で田舎へ帰るんだけど、もう試験のこと忘れてますよね。 先生が東京駅で手を振ってくれた。 それは映像として、もうあの先生とは二度と会えないな、 っていうのは、ちょっと寂しい感じはありましたけどね。 」

「 でももうすぐ帰ったら担任とか近所の人とか両親が どんな顔して驚くかなの方に興味の関心が全部向いてしまうんですよ。 そうすると今度は早く帰りたくたるんですよ。 」

「 それはもう。まず両親が驚きましたね。  『どないしたんや』 『病気でもしたんか』 言うわけですよ。 いやそうじゃなくてこいういう訳で帰ってきた。 『よかったよかった』   『じゃ牡丹餅でも作ろか。おはぎにしよか。どっちがいい。』  みたいな感じですよ。 両親大喜びしてんの。 」

「 だって親元から離れてね、僕がどっか行っちゃうでしょ。 親も寂しいじゃないですか。 だから親としては、もう先生に説得されたから息子を手放すことになったわけですよ。 じゃ今度先生のとこ飛んで行くと、先生は真っ青な顔してびっくりして。 というのは、就職クラスじゃなかったから皆進学ですよ。 あの頃は進学したやつはほとんど入るんですよ。 今みたいに厳しくなくって。  『おい横尾君、他に二次志望の学校かるか』 って。 ないですよ、一本に絞ってましたから。 そしたら先生がすぐ自分で就職決めなければいけないから。 先生の責任で。 」

「 その先生もおっちょこっちょいで。 目の前にある電話を取ってですよ、二三軒先にある印刷屋さんに僕の前で電話して  『うちの生徒が今こうなってこうなってんだけど、お宅ひとつ使ってくれへんか』  って電話してんですよ。 」


結局、人に勧められるまま進路を決めた横尾だった。


10代の自分は・・・



横尾忠則
「 両親の僕の育て方ていうのは、人の言うなりのように育てられてましたからね。 そんなに抵抗とか反抗とかしなかったんですよ。 」

「 あのね僕の10代っていうのは、その頃もそうだけど、 凄い優柔不断の少年だったんですよ。 僕自身がね、僕の意志というのが非常に薄弱でね、  『右だよ』 って言われたら 『はい』 って右行っちゃう。  『あっ間違った左だった』   『はい』 って左行く。 そういう非常に素直といえば素直ですよ、 だけど悪く言えば優柔不断ですよ。 そういう性格してたんですね。 だからはっきり言って、野心とか野望とかね大きな夢とかいうものは、 持ってなかったですね。 今から思っても。 」


横尾忠則の10代は、いわば他人まかせの連続。それが自分らしい生き方だ。ところが、就職した途端、横尾は豹変する。

 

Posted 12 Nov. 2008
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