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一人、そしてまた一人

マザー・テレサ 平和に捧げた生涯

編集: 10 Dec. 2008
掲載: 20 Dec. 2008
No. 68

INTRODUCTION

インド北部にあるコルカタ。かつてのカルカッタ。 この街の一角に死を待つ人々の家と呼ばれる施設があります。 ここでは、身寄りも無く死に瀕した人が引き取られ、手厚く介抱されながら最後の時を迎えます。

この施設を活動の原点とし、貧困に苦しむ人々を救い続けたのがカトリックの修道女 マザー・テレサです。 マザーは、インドそして世界中で助けを求める人びとの手を握り、声を聞き、語りかけてきました。 こうした慈愛の行いを支えたマザーの悲痛な願いがあります。 それは、『平和』 です。

マザーは幼い頃から人びとが民族や宗教の違いで互いを憎み傷つけあう姿を目の当たりにしてきました。 心の支えを信仰に求めたマザーは、後の生き方を決める祈りの言葉に出会います。

「主よ あなたの平和をもたらす道具として 私をお使いください」

この志に順じようとマザーはインドのスラムに身を投じます。

そこでマザーが見たのは最も貧しい人たち。 誰からも見捨てられ、路上で死に行く人。 そして、そのことに無関心でいる周囲の人びとです。

最も貧しい人を救う。
マザーは目の前に苦しみに喘ぐ人に、一人、そしてまた一人と救いの手を差し延べます。

マザーの救済は世界へと広がります。 しかし、一方で紛争は絶えることなく、その犠牲となる人びとは増え続けました。

マザーは葛藤します。
「自分はなんて小さな存在なのか ほとんど無に等しい」

そんな中、マザーの活動に世界が注目する時が訪れます。 一人ひとりの意識が変われば、必ず平和につながる。 マザーの信念は、やがて多くの人びとの心を動かしていくのです。

 

マザー・テレサはなぜインドへ向かったのか

「マザー・テレサ」誕生

ヨーロッパ バルカン半島の中央に位置する都市 スコピエ。 多くの民族、そしてさまざまな宗教が混在する地域にあります。

この地に1910年、マザー・テレサ 本名 アグネス・ゴンジャ・ホヤジュは、アルバニア人として生まれました。 敬虔なクリスチャン家庭でマザーは家族の愛に囲まれて育ちました。 しかし、その家族の幸せは相次ぐ紛争の中で引き裂かれていきます。

1914年、第一次世界大戦が勃発。 バルカン半島での民族問題に端を発した紛争は、世界を巻き込んだ戦争へと発展します。 4年に及んだ対戦の後、バルカン半島では民族間の均衡が崩れます。 それぞれの民族が独立を掲げ、激しい対立が各地で起き始めました。

マザーの父(ニコラ)は、実業家としてさまざまな民族と取引をしていましたが、この機運の中で一変します。 アルバニアの独立運動に身を投じるのです。 しかしそれが悲劇を呼びます。 1919年、マザー9歳の時、突然父が亡くなります。 毒殺とも噂されました。

人間の憎しみが愛する父を奪った。 それは幼いマザーの心に深い傷を残しました。

そんなマザーが求めたのは、信仰による救いでした。 来る日も来る日も教会に通い続けます。 ある日、マザーは一冊の本に出会います。 それはカトリックの聖人 アッシジの聖フランシスコの生涯を描いたものでした。

聖フランシスコは、13世紀イタリアの修道士です。 イタリアが戦乱で明け暮れる中、神の命を受け路頭に迷う民衆を救うため生涯を捧げました。 マザーの心を捉えた聖フランシスコの祈りの言葉です。

「主よ あなたの平和をもたらす道具として 私をお使い下さい 憎しみのあるところには 愛を 不当な扱いのあるところには ゆるしを 分裂のあるところには 一致を」

争い、憎しみ合う人々の姿に絶望していたマザー。 しかし、この祈りの言葉は暗闇に一つの道を示してくれました。 マザーは、自分も聖フランシスコのように生きようと心に誓います。

何年にも渡り熱心に教会に通い続けたマザー。 ある日、神父から興味深い話を耳にします。 マザーが通う教会組織の宣教師たちが、海を越えインドという地で活躍しているというのです。

当時インドは、大英帝国の植民地。 多くの民衆が搾取を受け困窮した生活を強いられていました。

インドに行けば聖フランシスコのように人とを救えるかもしれない。 マザーは修道女になってインドに行くことを決意します。 そして母(ドロナ)に、修道女になることを打ち明けます。 突然の話に母は言葉を失います。 修道女になること。 それは二度と家族に会えないことを意味しました。 父亡き後、女手一つで育て上げた娘。 その別れは母にとって耐え難いものでした。 しかし明くる朝、母は穏やかに微笑みながらマザーに言いました。 「あなたの手を神さまの手に重ね、いつも神さまと共に歩みなさい」

 

1928年12月1日、18歳のマザーはインドへと旅立ちます。 1ヵ月後インドの地に降り立ったマザーには初めて目にする貧困の世界が広がっていました。 マザーはインド北部の街 コルカタ。 かつてのカルカッタにある修道院に配属。 その女学校で教師を務めることになりました。 当時の生徒の中には恵まれない境遇の少女たちも多くいました。 マザーは教育を通して人びとへの奉仕に打ち込みます。

しかしインドに来て18年目。 マザーはその後の生き方を変える出来事に遭遇します。 1946年8月16日に起きたコルカタでの大暴動です。 ヒンドゥー教徒とイスラム教徒との対立が激化。 それがついにコルカタの地で衝突します。

そこでマザーは驚くべき光景を目にします。マザーの言葉です。

「通りに転がっている沢山の死体。 ある者は突き刺され、ある者は殴り殺され、 乾いた血の海の中に考えられないような姿勢で横たわっていた」

今自分に何ができるのか。 マザーは修道女となった時の志を自らに問い直します。 聖フランシスコの祈り。

「主よ あなたの平和をもたらす道具として 私をお使いください 憎しみのあるところには愛を」
マザーは神の声を聞きます。 今こそ人びとを救う使命を全うする時。

マザーは修道院を離れて救済活動を行おうとコルカタ大司教に許可を求めます。 当時のカトリックの規則では、修道女が院外で活動することを堅く禁じていました。 ところがマザーは、何度も何度も手紙を書いて訴えます。

「貧しい人を助けたいという欲求が私の心をずっと満たしています。 それは日に日に強くはっきりとしてきています」

2年後の1948年8月8日、マザーの願いはついに叶えられます。 修道院を出て活動する許可が下りました。 その8日後。 マザーは修道服を脱ぎます。 そして、インドの民衆の服であるサリーに身を包みました。 白い木綿のサリーは、中でも最も質素なものでした。 それは、これから貧しい人びとと共に生きるというマザーの決意だったのです。 その夜。 他の修道女たちの動揺を避けるため、マザーは一人ひっそりと修道院を出ていきました。

それは、マザーがノーベル平和賞を受賞する31年前のことでした。

 

マザーは、どのようにして人々を救済したのか

マザー・テレサ スラムでの活動

人びとの救済のため修道院を出たマザー・テレサ。 真っ先に向かったのは貧民街・スラムでした。

1947年、ヒンドゥーとイスラムの宗教対立の末、パキスタン・イスラム共和国がインドから独立。 国境近くにあるコルカタに100万人近いヒンドゥー教徒が難民として流れ込みます。 そして各地にスラムが生まれていました。 マザーはスラムをくまなく歩くうちに、学校に行かずに過ごす子供が多くいることに気づきました。

「お子さんに勉強を教えたいのですが」
自分ができることから始めようと子供たちに勉強を教えようとしました。

あくる朝マザーは、昨日訪ねた場所に向かいます。 すると5人の子供が待っていたのです。 急ごしらえの青空教室が始まりました。 エンピツ1本、ノート1冊もありません。 マザーは木の枝を使って地面に字を書き、子供たちに教え始めました。

学校は出来たもののスラムの人々をたった一人で救うのは途方もないことでした。 自分の無力さに苛まれていた頃、マザーのもとに若いインドの女性が訪ねてきました。 それは、かつて修道院でマザーの教えていた生徒でした。 マザーのスラムでの活動を聞きつけ、自分も手伝いたいとやって来たのです。

その数はさらに増え、10人になりました。 そんなある日。 スラムを歩いていたマザーは、道端に転がっている者にに気づきます。 近づくと、それは行き倒れになった女性でした。 わずかに女性の指が動きました。

「まだ生きている」

死にかけた人が道端に放置されていることにマザーは驚きます。 すぐに、マザーは女性を病院に運びます。 しかし、病院の医師は女性を見て言いました。
「だめだ、こんな人間はコルカタに何百人もいる」
マザーは諦めずその場から動きません。 医師はマザーに根負けし、女性は無事病院に引き受けられました。 しかし、マザーの心には医師の言葉が突き刺さっていました。

「そんな人間は何百人もいる」

道端で人が死ぬことが当然とされる社会と人々の心。

最も貧しい人たち

その存在にマザーは気づきます。 ただ、物質的な貧しさだけでなく、誰からも愛されず見捨てられた人。 この人たちこそ自分が救わねばならない。

 

早速、マザーは行動に移します。 市役所を訪ね、路上で死にかけている人々を見取る場所を提供して欲しいと訴えました。 マザーの熱意に動かされた役人は、ある場所を紹介してくれます。 それは、コルカタのヒンドゥー教の聖地、カリー寺院でした。 その休憩所を、使われていないからという理由で貸してくれたのです。

早速、マザーたちは路上で行き倒れている人々を引き取り介抱します。 衰弱が激しく、自分で食べることの出来ない人の口に食べ物を運びます。 そして、助かる見込みが無くても薬を与え、出来る限るりの治療を施しました。

後にマザーは語っています。
「誰からも見捨てられた人々が、せめて最後は大切にされ、 愛されていると感じながら亡くなってほしい。 彼らが、それまで味わえなかった愛を最上の形で与えたい。」

施設の名は、『死を待つ人々の家
誰からも見捨てられた人たちが、人間として尊厳ある最後をむかえる場所です。

ところが、言われなき噂が広がります。 カトリックの修道女が、ヒンドゥー教の聖地を乗っ取った。 そして、ヒンドゥー教徒たちが押しかけ立ち退きを迫ります。 マザーは動じませんでした。 そんな折。 重い結核を患ったヒンドゥー教の僧侶が運ばれます。 マザーは、他の人と同じく僧侶を介抱し、その最後をヒンドゥー教の流儀で見取りました。

ヒンドゥー教徒の誤解は解かれました。 一人の人間として最善の救いを行う。 そのマザーの姿勢は、宗教をこえて人々の良心に訴えかけていきました。

最も貧しい人。
それは路上で死に瀕している人だけではありません。 マザーはさらにシシュ・ババン 子どもの家という施設を作りました。 捨て子や孤児といった、さまざまな事情で親に見離された子供たちを保護し育てます。

マザーの活動に理解が深まるにつれ、周囲の住人や地元の有力者たちが、食糧を寄付したり費用を援助したりしてくれるようになってきました。 そんなある日。 小さな男の子が、マザーを訪ねてきました。 男の子は壷を差し出しました。 中身をたずねると。 砂糖です。 そして男の子はこう言いました。

「施設の子どもたちに食べて欲しい」

男の子はこのために3日間、大好きな砂糖を食べず我慢し貯めてきたのです。

自分の何かを犠牲にしてでも誰かを救いたいという心。
マザーの精神は、こんな小さな男の子にまで伝わり初めていました。
それは、マザーがノーベル平和賞を受賞する24年前のことでした。

 

世界に広がるマザーの活動 そこに横たわる現実とは

インド コルカタで始まったマザーの活動は、インド各地に広まっていました。 さらに、マザーたちの評判を聞き、海外からも貧困に苦しむ人を救って欲しいと依頼が寄せられマザーは応えます。

1967年、第三次中東戦争が勃発。 イスラエル建国が引き金となって続いていたユダヤとアラブの争い。 この戦いでイスラエルは占領地を拡大し、その結果、38万人近い難民が戦火を恐れ隣国ヨルダンへ流れ込みました。 これまでもヨルダには50万人もの難民が流入していました。 その支援を中心的に行ってきたのが国連です。 国連は、郊外にキャンプを設置し、食糧援助や医療など救援活動w行っていましたが、 いっきに増えた難民に対応が追いつかなくなっていました。 そして、難民キャンプに入れず支援を満足に受けられない子どもが数多く生まれていました。

この人々の救済のため、マザーは現地に向かいます。 1970年7月16日。 マザーはヨルダンの首都アンマンに降り立ちます。 そして、難民キャンプに入れずにいる人々のもとに向かいます。 その一つ、ジャベル・ジョウファ。 当時人々は粗末な小屋に身を寄せ、苦しい暮らしを強いられていました。 マザーはこの地域を見てまわるうちに、衰弱する老人が多くいることに気づきます。 老人たちは、ただ死を待つがごとく小屋の隅に置かれていました。

「ここにも 誰からも見捨てられた 『最も貧しい人たち』 がいる」

マザーたちは、早速老人たちを保護する施設(貧しい人々の家)を作りました。 そして、老人たちを献身的に介抱しました。

その後もマザーは、世界で救いを求める人たちのために、30近い国や地域を訪れます。 しかし、活動が広がるにつれ、一部の社会活動家や政治家から疑問の声が上がります。

「私は大仕掛けのやり方には反対です。大切なのは、一人ひとりの個人。 愛を伝えるには、一人の人間として相手に接しなければなりません。 一人のための愛と尊敬を伝えることはできないでしょう。 『一人ひとりの触れ合い』こそが、何よりも大切なのです」

世間の批判にもいにかいさず姿勢を貫いたマザー。 しかし、近年公開された友人宛の手紙には、この頃、マザーが深い葛藤を抱えていたことがしたためられていました。

手紙の一節です。
「神の偉大さに比べて、私はなんてちっぽけなのか。 ほとんど無に等しいかもしれない。 あまりに無力で、空っぽで、そして、あまりに小さな私。」

 

1979年10月16日。 疑問を繰り返すマザーにある知らせが届きます。 マザーにノーベル平和賞が贈られることが決まったのです。 マザーはとっさに思います。

「私には、受ける価値など無い」

マザーは、平和への道のりがいかに困難かを誰よりも知っていました。 しかし、マザーは考え直します。 これを機に、最も貧しい人たちの存在を世界のより多くの人に気づいてもらおう。 マザーは賞を受けることを決めます。

2ヶ月後、受賞会場のノルウェー オスロ大学 大ホール。 そこには世界から集まった人々が礼装に身を包みマザーの登場を待っていました。

現れたマザーの姿に人々は目を見張ります。 マザーは、質素な白いサリーとサンダル。 それは、貧しい人々と共に生きる決意をした時から変わらぬ装いでした。

1979年12月10日。 スピーチが始まります。 マザーは演説の前に、まず「共に祈ろう」と人々に呼びかけました。

「主よ、あなたの平和をもたらす道具として私をお使いください。 憎しみのあるところには愛を、 不当な扱いのあるところにはゆるしを、分裂のあるところには一致を」

 

マザーが捧げたのは、あの聖フランシスコの平和の祈りでした。 絶え間ない紛争と、そこに生まれる貧しい人たち。 絶望の中で、彼女に希望を与え続けた祈りです。 マザーは、その思いを世界の人々と分かち合おうとしたのです。

ノーベル平和賞の受賞は、マザーの活動を世界中に知らせることになりました。 そしてその後、世界各地で人道的支援をめざす市民による支援活動が盛んに行われるようになります。

最も貧しい人たちに寄り添い、手を握り、語り続けたマザー・テレサ。 一人ひとりの人間の尊厳を守ることが、平和への道筋になることをマザーは問いかけ続けたのです。

 

マザーの活動は、今、どのように受け継がれているのか

1997年9月5日。マザーは87歳の生涯を閉じます。 彼女の死をいたむ人々はこう語りました。

「私たちの母が亡くなった」

インド コルカタにある墓には、マザーを偲び世界中から多くの人々が訪れています。 マザーが捧げた深い愛情は、今も人々の胸に行き続けています。

ミリアム・ミトラさん。60歳。 彼女は、かつてマザーに救われた子どもに一人です。 3歳でシシュ・ババン 子どもの家に引き取られた彼女は、 マザーたちの愛情に包まれて育ちました。 自分に家族はいないと感じることはほとんどなかったといいます。 そんな彼女が一度だけ自分に親がいないと痛感した時があります。 それは、就職先の願書に親の名を書かなければならなかった時です。 涙ぐむ彼女を見てマザーは、親の名を書く欄にこう記しました。
「マザー・テレサ」

その後、ミトラさんは結婚し、今では2人の子ども、そして2人の孫がいます。 一人ぼっちだった少女は、今沢山の家族に囲まれ幸せに暮らしています。

マザーのスラムで活動の原点、死を待つ人々の家。 今もこの施には最後の時を迎える人々がいます。 施設には、マザーの志に共感し、ボランティアとして活動する人たちが世界中から集まっています。 ボランティアの人たちは、やがてそれぞれの国や地域で、こうしたマザーの実践を広げていくのです。

救いを求める人に手を差し伸べ続けたマザー・テレサ。生前、人々に語り続けた言葉です。

「私は、決して助けた人を数えたりしません。
ただ一人、ひとり、そして、また一人」

(完)

 

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